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浜松・アクトシティ能・狂言|野村萬斎監修の舞台を初めてじっくり観てみた

体験
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2026年9月13日、浜松市のアクトシティ大ホールで開催された「アクトシティ能・狂言」を観てきました。

今回の公演は、野村萬斎氏が監修・出演。

演目は、狂言「小傘(こがらかさ)」と、能「大会(だいえ)」です。

私はこれまで、能・狂言には「日本の伝統芸能」というイメージを持っていました。

一方で、

「セリフが難しくて、内容が分からないのでは?」

という不安もありました。

実は高校時代、課外授業の一環で狂言を観たことがあります。

約50年前のことですが、舞台上の動きから何となく分かる部分はあったものの、セリフの内容がほとんど理解できず、正直なところ、観劇後の満足度はあまり高くありませんでした。

そんな私にとって、今回は初めて間近で観る「能」。

そして約50年ぶりに観る「狂言」です。

果たして今回は楽しめるのか。

そんな少しの不安を抱えながら、アクトシティ大ホールの座席に着きました。

ところが――。

その不安は、開演してすぐに吹き飛びました。


「浜松能」をきっかけに23回目を迎える歴史ある公演

今回の「アクトシティ能・狂言」は、浜松市制80周年を記念して始まった「浜松能」をきっかけとして、今回で23回目を迎える歴史ある催しだそうです。

浜松と能には、実は深いつながりがあります。

徳川家康公も幼少の頃から能を学んでいたとされ、浜松城に居城していた時代には、観世大夫が能を演じ、家康公自身も舞ったと伝えられています。

浜松というと、楽器や音楽の街という印象が強いかもしれません。

しかし、こうして振り返ってみると、日本の伝統芸能である能とも縁の深い土地なのですね。


野村萬斎氏が監修する「アクトシティ能・狂言」

今回の「アクトシティ能・狂言」で監修を務めるのが、野村萬斎氏です。

野村萬斎氏による監修は2011年以来、3年に一度行われており、今回は6回目とのこと。

私が野村萬斎氏を強く印象に残しているのは、2004年のアテネオリンピックです。

蜷川幸雄氏演出のギリシャ悲劇「オイディプス王」で、主人公オイディプス王を演じた野村萬斎氏。

アテネの古代劇場「ヘロデス・アッティコス音楽堂」で上演された舞台をテレビで見た記憶があります。

今でも、そのときの映像とともに感動がよみがえってきます。

そんな野村萬斎氏が監修・出演する「アクトシティ能・狂言」。

もしかすると、伝統芸能でありながら、現代の観客にも楽しめるエンターテインメント性があるのではないか。

そんな期待も膨らんでいました。


能・狂言は「セリフが分からない」が最大のハードル

私が今回、観劇前に一番心配していたのが「言葉」です。

能・狂言と聞くと、

  • セリフが難しい
  • 昔の日本語なので理解しにくい
  • 独特の発声で何を言っているのか分からない

というイメージがあります。

高校時代に狂言を観たときも、まさにそこが大きな壁でした。

今回も、

「字幕があったとしても、結局意味が分からなかったらどうしよう」

と思っていました。

ところが、主催者側もその点をしっかり考えているようでした。


開演前から始まっていた「能・狂言を楽しむための準備」

入場時に渡されたパンフレットには、今回の演目である

狂言「小傘」

能「大会」

のあらすじが紹介されていました。

これだけでも、初めて観る人にとってはかなり助かります。

さらに開演すると、野村萬斎氏本人が舞台に登場。

能・狂言の歴史や背景、当時の文化について分かりやすく説明してくれました。

しかも、単に歴史を説明するだけではありません。

ユーモアを交えながら、能・狂言が生まれた時代の文化と、現在の日本のアニメーション文化までつなげて話されます。

「昔の伝統芸能」と「現代のアニメ」。

一見するとまったく違うもののようですが、日本人の想像力や表現の仕方という点で考えると、確かにつながっている部分がある。

そんな話を聞いているうちに、これから始まる舞台への興味がどんどん高まっていきました。


狂言「小傘」では観客も舞台の一員に

「アクトシティ能・狂言」のパンフレットに載っていた「小傘」の一シーン

最初に演じられたのは狂言「小傘」。

ここで、とても面白い体験がありました。

劇中で念仏を唱える場面があるのですが、野村萬斎氏が観客にも一緒に唱和するよう促します。

「なんまんだーぶ、なんまんだーぶ」

最初は客席から小さな声が聞こえる程度。

ところが、次第に声が大きくなっていきます。

そして気がつけば、客席全体が一緒になって声を出している。

舞台を「観る側」だった観客が、いつの間にか舞台の空間を一緒につくっているような感覚です。

これは、テレビや映像では味わえない、劇場ならではの面白さでした。


約50年ぶりの狂言は、思っていたよりずっと分かりやすかった

高校時代に観た狂言では、セリフの内容がほとんど分かりませんでした。

しかし今回は、事前にあらすじを知っていたこと、そして開演前に野村萬斎氏から説明があったこともあり、以前とはまったく違った感覚で観ることができました。

もちろん、すべての言葉を理解できたわけではありません。

それでも、

「今、こういう場面なのだな」

ということが分かるだけで、舞台の楽しみ方は大きく変わります。

約50年という時間を経て、同じ狂言という伝統芸能をもう一度観る。

自分自身の年齢や経験が変わったことで、以前とは違ったものとして感じられたのも、今回の観劇の面白さでした。


20分の休憩で、浜松らしいスイーツに出会う

狂言が終わると、能の前に20分間の休憩がありました。

そこで大ホールの外に出てみると、浜松ならではのスイーツが販売されています。

目に入ったのが、浜松の老舗和菓子店「巌邑堂(がんゆうどう)」の出店でした。

巌邑堂といえば、テレビ番組でマツコ・デラックスさんが絶賛した栗蒸し羊羹でも知られています。

今回は、どら焼きが販売されていました。

休憩時間になると、そこには長い行列ができています。

「せっかくだから」と、私たちも購入。

観劇後、自宅に戻ってから、お抹茶と一緒にいただきました。

能・狂言の感想をあれこれ話しながらいただくどら焼きは、また格別。

今回の観劇を振り返る時間まで含めて、楽しい一日になりました。

厳邑堂の情報はこちら

能「大会」は、舞台全体を「能舞台」として使う

休憩が終わると、いよいよ能「大会」です。

能については、演者の片山九郎右衛門氏から説明がありました。

今回の舞台の大きな特徴は、通常の能舞台の規格にとらわれず、大ホールの舞台全体を能舞台としてとらえるという考え方です。

演者の表現技法は古来の形を守りながら、

  • 照明
  • 映像
  • 大ホールならではの空間

など、現代の舞台技術を取り入れています。

伝統を変えてしまうのではなく、伝統芸能を現代の劇場空間の中で、より分かりやすく、より印象的に見せる。

今回の「アクトシティ能・狂言」ならではの試みです。


「静」は無ではない――能の存在感に圧倒される

実際に能を観て、私が強く感じたのが「静」の持つ力でした。

能というと、静かに、ゆっくりと演じるものというイメージがあります。

しかし実際に観てみると、その「静」は決して「何も起こっていない状態」ではありません。

むしろ、

「このあと何かが起こるのではないか」

という期待感を生み出します。

動きが少ないからこそ、わずかな動きが強く印象に残る。

特に印象的だったのが、釈迦如来の存在感でした。

そこに立っているだけなのに、舞台上の空気が変わる。

私には、そんな感覚がありました。


「天狗が釈迦如来になる」という面白さ

今回の能「大会」で、観劇前に説明を受けて特に興味を持ったのが、釈迦如来の設定です。

天狗が釈迦如来になりきって説法をするという、何ともユニークな設定。

しかも、演者は天狗の面をつけ、その上に釈迦如来の面をつけます。

さらに釈迦如来の面は、四頭身になるような大きく不自然な印象を与えるもの。

これが、見る側の想像力を刺激します。

実際の舞台では、その「不自然さ」そのものが面白さになっていました。

伝統芸能というと、とても堅苦しいものを想像してしまいます。

しかし、こうしたユーモアや遊び心も能の中にある。

これは今回、実際に観て初めて分かったことでした。


能の「音」と「声」に圧倒された

今回、私が最も驚いたのは、能の音と声でした。

笛や鼓などの楽器。

そして掛け声。

さらに複数の演者による謡。

その一つ一つが重なり合い、独特の音空間をつくり出します。

同行者Aも、観劇後の3分メモで、

「能のバック音楽、歌声、掛け声」

を一番印象に残った「音・声・動き」として挙げています。

私自身は、まるで集団で読経しているような、魂の響きのような力強さを感じました。

一般的な合唱のユニゾンとは少し違う。

声と声が重なり合って、能独特の一体感が生まれている。

そして、それがマイクを通した音ではなく、大ホール全体に響き渡ります。

同行者Aも、

「マイクなしで会場全体に響きわたっていたのに驚いた」

と記録しています。

これは、能を実際の劇場で観なければ分からない魅力なのかもしれません。


能と歌舞伎の違いも面白かった

「アクトシティ能・狂言」パンフレットに載っていた「大会」の一シーン。帝釈天が釈迦如来になりきっていた天狗を懲らしめる場面

能の中で、帝釈天と釈迦如来になりきった天狗が対峙する場面では、私は一瞬、歌舞伎を観ているような感覚になりました。

しかし、よく考えてみると、能の「静」と「動」の切り替えは、歌舞伎とはまた違います。

能では、その切り替えがシンプルだからこそ、動きの意味が強く感じられる。

「静かな芸能」という先入観を持っていた私にとって、これは意外な発見でした。


能と狂言から感じた、750年続く日本文化

今回、野村萬斎氏の解説を聞きながら舞台を観ていて、強く感じたことがあります。

それは、

日本文化は形を変えながら、長い時間をかけて現在まで続いている

ということです。

能や狂言が生まれた時代。

その時代には鳥獣戯画のような表現もありました。

そして現在の日本にはアニメーションがあります。

もちろん、能・狂言と現代アニメを単純に同じものとして考えることはできません。

しかし、現実には存在しないものを想像し、人物や動物などを通して物語を表現するという、日本独特の想像力の流れを感じることができます。

約750年前の文化が、形を変えながら現代にもつながっている。

そう考えると、能・狂言が単なる「昔の伝統芸能」ではなく、現在の日本文化を考えるうえでも興味深い存在に思えてきます。


狂言と能から見える、当時の日本社会

今回もう一つ興味深かったのが、狂言と能の違いです。

私には、狂言はより庶民的で、能は貴族や武家社会など、より上の階層にも受け入れられていた芸能という違いがあるように感じられました。

もちろん、実際の歴史はもっと複雑なのでしょう。

それでも、狂言と能を続けて観ることで、

「当時の人たちは、こういうことを面白がっていたのか」

「こんな宗教観や価値観があったのか」

と、昔の人々の暮らしや社会に想像を巡らせることができます。

今回の「大会」では仏教が重要なテーマとなっていました。

一方、「小傘」では念仏を唱える場面が登場します。

そこから、当時の仏教が人々の生活に広がっていった時代背景にも思いを馳せることができました。

時代は違っても、人が笑ったり、迷ったり、救いを求めたりするところは、昔も今もそれほど変わらない。

そんなことも感じた観劇でした。


能・狂言を初めて観た私たちの評価は?

今回、観劇後すぐに、私と同行者Aで「能・狂言観劇評価シート」を使って評価してみました。

10項目をそれぞれ10点満点で評価しています。

評価項目筆者同行者A
演目の魅力1010
演者の表現力1010
謡・台詞の魅力1010
舞・所作の美しさ1010
囃子・音楽の魅力1010
面・装束・舞台の魅力99
物語の理解度910
臨場感・没入感1010
日本文化としての魅力1010
総合満足度・再観劇意向1010
合計9899

2人の平均は、

98.5点/100点

となりました。

初めて本格的に観る能・狂言としては、かなり高い評価です。

やはり、野村萬斎氏監修、充実したパンフレット、事前の説明、によって高い評価になっていると思います。


私が「よく分からなかった」と感じたところ

もちろん、すべてを理解できたわけではありません。

私の評価シートで9点だったのが「物語の理解度」です。

字幕が舞台の袖に表示されていましたが、それでも、

「文字として読めても、その言葉の意味そのものが分からない」

という場面がありました。

これは、やはり能・狂言初心者にとって大きな壁だと思います。

同行者Aは、能面の表情が席からは見えなかったことを挙げています。

今回の座席は、

S席・1階24列

でした。

大ホールということもあり、能面を細かく見るには、もう少し前の席のほうがよかったのかもしれません。

それでも、声や音、舞台全体の演出については十分に楽しむことができました。


観劇前と観劇後で、能の印象が大きく変わった

観劇前の私は、

「能=静寂の中で静かに演じられる伝統芸能」

というイメージを持っていました。

しかし、実際に観てみると、その印象はかなり変わりました。

特に、

楽器、謡、掛け声、そして演者の動き。

これらが一体となった舞台には、想像していた以上のエンターテインメント性がありました。

もちろん、現代の舞台と同じ意味でのエンタメではありません。

しかし、観客の想像力を刺激しながら、音と動きによって舞台の世界へ引き込んでいく。

その意味では、非常に完成度の高い「舞台芸術」だと感じました。


同行者Aの一言「初めて見た能に魅了された」

同行者Aの観劇直後の一言が、とても印象に残りました。

「初めて見た能に魅了された。」

そして、

「日本の伝統文化の奥深さを改めて知った。」

という感想も。

私もほぼ同じ気持ちでした。

観劇前には「セリフが分からなかったらどうしよう」と思っていたのに、終わってみれば、

「また観てみたい」

という気持ちになっていました。


今回の観劇を一言でいうと

私自身の観劇直後の3分メモには、こう書きました。

「日本古来の芸能に接したはずなのに、何か新鮮な新しいエンタメに接したような体験でした。」

これは、今回の観劇を一番よく表している言葉だと思います。

もちろん、野村萬斎氏による解説や、現代の照明・映像を取り入れた舞台演出の効果も大きかったのでしょう。

でも、それだけではありません。

古くから受け継がれてきた能・狂言そのものに、現代の私たちが楽しめる力がある。

今回、それを実感することができました。


「能・狂言は難しい」と思っている人にこそ観てほしい

今回の経験から、私は能・狂言をまだ観たことがない人にも、ぜひ一度観てほしいと思うようになりました。

特に初めて観るなら、

  1. 事前に演目のあらすじを読んでおく
  2. 可能なら解説付きの公演を選ぶ
  3. 最初からすべて理解しようとしない
  4. セリフだけでなく、音・声・動きを楽しむ
  5. 舞台上で何が起こっているのかを想像してみる

このあたりを意識すると、かなり楽しみやすくなると思います。

私自身、約50年前の高校時代には「よく分からなかった」狂言が、66歳になった今回はかなり面白く感じられました。

年齢を重ねてから観る伝統芸能には、若い頃とはまた違った面白さがあるのかもしれません。


66歳、初めてじっくり観た「能・狂言」

今回、浜松という地方都市で、野村萬斎氏監修・出演の能・狂言を観ることができました。

それだけでも貴重な経験でした。

しかも、単に舞台を観ただけではありません。

野村萬斎氏の解説を聞き、狂言では客席全体で念仏を唱和し、能では独特の謡や楽器、掛け声の力強さに圧倒されました。

そして帰宅してからは、浜松の和菓子とお抹茶をいただきながら、同行者Aと舞台の感想を語り合う。

これもまた、観劇の楽しみの一つなのだと思います。

今回の評価は、

筆者 98点

同行者A 99点

2人の平均 98.5点

となりました。

もちろん、点数がすべてではありません。

でも、観劇前の「分からなかったらどうしよう」という気持ちから、観劇後の「また観たい」への変化を考えれば、今回の舞台が私たちにとって非常に満足度の高い体験だったことは間違いありません。

浜松には、こうした伝統芸能を実際に楽しめる機会があります。

私も今後、このような機会があれば、ぜひまた足を運んでみたいと思います。

66歳になって初めて、能の面白さを知りました。

次に観るときには、今回よりも少しだけ能の言葉や所作が分かるようになっているかもしれません。

それも、これからの楽しみの一つです。

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